Signature Life

雑記帳

AirPods 2

ついに先週、買ってしまったAirPods 2。

既にAirPods Proが近日中に発売される情報はあったものの、それまで待ちきれずに購入。


1か月ぐらい前にBose SoundSport Freeというワイヤレスイヤーフォンを25,000円ほどで買ったばかりだが、使用中に頭痛と肩こりが出るので、これは危ないと思って使用を中止した。

iPhoneとのBluetooth接続も調子が悪く、かなりの頻度で失敗する。

さらに電話の声は右耳しか聞こえないという仕様。ぼくは昔から電話は必ず左耳で聞いていた。右耳で聞くとどうも話の理解が浅くなるからだ。

しかしBose SoundSport Freeは音質がかなり良かったし、装着感や外部ノイズの聞こえ具合とちょうど良いものだった。


AirPods 2は、音質は全く良くない。ただ鳴っているだけ。

でもiPhoneとのBluetooth接続は絶対に失敗しない。しかも接続に10-20秒ほど要するBoseと違い、2秒で接続する。

装着感はEarPodsから変わらない最高の装着感で、長時間着けていても苦にならない。

外のノイズも十分すぎるほど聞こえるため危険性はないが、電車の中では逆にノイズが大き過ぎて音楽が聴こえにくい。


意外に良かったのは、Hey Siri機能。

こんなもの使わないだろうと思っていたし、iPhoneでHey Siriを使うことはほとんど無いが、不思議とAirPodsだとHey Siriをよく使うようになった。実際そこそこ便利に感じることもある。

 

Appleがやろうとしているハードウェアによるエコシステムプレイ(プラットフォーム)の構想がよく解る気がする。Apple Watchを着け始めたときも、同じことを感じた。

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フィジカルなコンディション

過去に自分が明らかな判断ミスを犯した際、それは10年前も2年前も1か月前も同じくだが、そういう時はかなりの割合で、体力的な問題も絡んでいたことに、なんとなく昔から気づいていたというか、気になっていた。

本当は選択肢Aを採るべきだったのに、体力的にきつかったから選択肢Bを選んでしまったとか、睡眠不足のために本来は考慮すべき材料を忘れていたとか、疲れていて集中力が無かったとか・・・結果論だが、結果的にそういうことが根元的にミステイクに絡んでいることは、かなり多いことを自分では認識している。

 

今後、ますますそういうことが増えてくるかもしれない。

それを避けるためには、体力を鍛えて、睡眠不足を回避して、栄養に気を使わなければいけないなあ。

2020年は、そんなことを大切にしていきたい。

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認知の不思議

街を歩きながら、横文字の英語で書かれた看板が壁の切れ目から見えてきた。
ただし、その単語は逆方向から見えてきた。つまり、単語を形成する最後のアルファベットから順に目の前に現れていった。

このとき面白いなあと思ったのは、こうして単語を形成する最後尾のアルファベットから順に見えていくと、その単語を判別出来るまでにかなりの文字数が判明する必要がある、ということだ。
場合によっては、単語の頭文字である最前列のアルファベットが見えるまで、その単語をすぐに判別できないことにさえ気付いて愕然とすると共に、非常に面白いと思った。

E
T
A
V
I
R
P

上記のアルファベットの並びを、上から下へと読み取った時、果たしてどのアルファベットまで来た段階で単語を判別出来るか、試してみて欲しい。

数学的な順列の観点からみれば、単語を形成するアルファベットを単語の頭から読み上げても、お尻から読み上げても、難易度に変化は無いはずである。
ところが認知学的な観点(?)からは、人間は単語のお尻から読み取ると、単語の頭文字から読み取った場合に比べて、単語の判別に圧倒的に長い時間と多くの情報を要することが判る。
なんか面白い。

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詐欺師への対応について

過去数年間、ぼくは詐欺師たちにずいぶんと人生を狂わされてきた。

彼らは、違法ではないが詐欺的行為を平気で行う人たちだ。

それまで、ぼくは少なくとも過去20年近くに渡り、ずっと人生が順調な上り基調で来ている実感があったし、それを続けるためには自分なりに、ものすごく一生懸命に考えて人生の様々な決断をしてきた自負があった。そうして下してきた自分の判断には自信を持っていた。
ところがそれは、判断の材料となる重要情報を提供してくれる自分の周囲の人たちが、意図的に嘘をつかない、ということが大前提となる。

 

嘘をつかない、というのには二種類の意味がある。
ひとつは、虚偽を伝えないということ。
そしてふたつ目には、重要な情報を意図的に隠匿しない、ということだ。

特にこのふたつ目が肝となる。
人が詐欺に引っかかるのは、虚偽の情報を与えられる場合はもちろんのこと、当然に知っておくべき情報を意図的に伝えられない事による帰結が、実は意外と多いと思う。

 

どういうことか?
例え話として、中古のパソコンを買うケースを挙げたい。
Windows PCをMacだと偽って販売するのは、顧客に虚偽の情報を伝えている点で詐欺である。
一方で、確かにそのパソコンはMacなのだが、実は故障していて電源が入らない、というパソコンを問題なく作動するMacと同じような価格で販売する・・・これが「当然に知っておくべき情報を意図的に伝えない」詐欺的手法である。
これはあくまでごく単純な例であり、この場合であれば、顧客は購入検討の商品が問題なく作動することを購入前に確認すべきである、という見方もできる。
しかし、世を生きる上で求められる判断には、これほどまでに単純ではない事柄も多く、詐欺師はまさにそこを突いてくる。
この場合、詐欺師は少なくとも嘘はついていない・・・ただ、当然に伝えるべき情報を伝えなかっただけであり、それを基に購入の判断を下したのは顧客の責任である、という話になる。

 

そしてこの手の詐欺師は、必ず繰り返し詐欺的行為を働いてくる。
だから貴方の人生は疲弊し、運が尽きてくる。
ちなみに運というのは、実は人から人へ移管可能な場合がある。詐欺的行為は、まさにその移管手段である。

 

詐欺師とは、人生のダークサイドに堕ちた人々。
ダークサイドに手を染める連中は、スターウォーズに出てくるシスの暗黒卿たちがそうであるように、例外なく有能である。稀に見るほどに優秀な連中だと思う。
そういう人たちの戦略を見抜くことは難しく、たとえ貴方がそれに気付いたとしても、そのころは時すでに遅しである。

もちろん、大抵の嘘は、いつかバレる。
現時点を起点とし、詐欺師がもたらす幻想が見せる未来へ向かう上り坂な線と、貴方が直面するであろう現実の線上との間には、三角形が出来る。詐欺師はこの角度の開きを利用して商売をする。このスプレッドを抜くのである。
詐欺師が有能であればあるほど、この角度は大きく、またその三角形を形成する辺は長い。すなわち、より大きな嘘を長い間、信じさせることができる。
その嘘がいつかバレて幻想が幻滅へ墜落したとしても、それまでに形成した三角形の面積が十分に大きければ、詐欺師は大きな収穫を手にする。その嘘に貴方が気づいたところで、その段階ではすでに貴方はダメージを負っていて、それを取り返すことが出来ない。

 

詐欺師は非常に頭が良く、弁が立ち、貴方を言いくるめるだろう。

 

詐欺師の問題のひとつめは、彼らが例外なく非常に優秀であること。
ふたつ目は、繰り返しの詐欺的行為により、貴方の運が吸い取られ、人生が疲弊すること。
みっつ目は、詐欺師には罪悪感が無いか、もしくは非常に薄いことである。

 

有能で罪悪感の薄い連中が、貴方を攻撃してきた場合、貴方に出来る対処は非常に限られてくる。
そこをどのように、出来るだけ早期に見抜き、そして対処するか・・・それが今とこれからのぼくに与えられた、大きく重い課題だと、最近つくづく考えている。

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WeWork & SoftBank Vision Fund

ソフトバンクグループのCDSが上がり続けている。株価は直近では少し上げてきているし、株価の日足チャートの形状から今後数日は上げる可能性が高いと見るけれど、これも今後の数週間から数ヶ月の時間軸ではきっと大きく下げるだろう。

ぼくは孫正義が嫌いなので、今回WeWorkがIPOに失敗してファンドが大失態をやらかしたのは、はっきり言ってメシウマ以外の何物でもない。
だけど今回も本当に紙一重だったと思う。今回は紙一重で、ソフトバンクにとって不利な方向に振れたのが孫正義としては大きな計算違いだった。
彼の計算ではもちろん、紙一重で逃げ切ってWeWorkはまんまと上場を果たし、ファンドは綺麗に売り抜けて莫大な利益を上げるのと引き換えに、クソみたいなリスクを一般投資家に押しつけていたところだったのだ。
今まで何度もやってきた、孫正義の詐欺的手法の面目躍如となるところだった。

 

WeWorkの経営権をSoftBankグループが買収するとの報道がある。

WeWorkに関しては、SoftBankグループおよびSoftBank Vision Fundは損切りすべきだと思うけれど、どうやらますます深入りする模様。

ひとつのやりようとして、WeWorkの競合たるリージャスブランド擁するIWGも買収してしまって、世界のシェアオフィスの圧倒的最大手の地位をSoftBankグループが確立する手はあると思う。IWGの時価総額はおよそ5,000億円。

しかしシェアオフィスというのは、規模のメリットが少なく、参入障壁は低く、その点ではIWGの買収もあまり良い手ではない。

 

ぼくは昔は、孫正義を尊敬していた。
しかし自分自身がいろんな闇を経験して、詐欺師を見抜く目を少し養い、投資もやるようになって、孫正義は実はとんでもない詐欺師であると確信するに至った。詐欺師とはいえ、合法的ではあるのだけれど、物事は法に触れさえしなければ何をやっても良いとは言えないと少なくともぼくは思う。

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勝てるチーム、地力ある会社

過去数週間、プライベートでも色々と忙しかったため、残念ながらラグビーのワールドカップをあまり観ることが出来ていない。
しかし先日の日本と南アフリカとの試合をテレビで観て、面白いなあと思った。

 

ラグビーは数ある集団競技のなかでも、より集団戦の要素が強い競技であるに違いないと感じた。そこがとても面白く感じた部分のひとつたった。
ちなみにその点で言えば、例えば野球は逆に、個人競技の要素が比較的強い集団競技であると言えると思う。ピッチャーとバッターが向き合うところからし個人競技だし(サインプレイはあるにせよ)、飛んできたボールをキャッチするのも基本的には個人競技であって、パス回しの類はあまり無い。

 

ぼくは昔は集団競技が嫌いだった。
集団競技が面白いと感じるようになったのは最近のことで、それは自分自身が小さくとも組織を率いる経験を過去数年間に得たことが大きく関係している。

自身が部下を持った経験が無い状態で見る上司や同僚や組織の姿と、部下を持つ経験を経たうえでのそれには、本質的な違いがあることを体感した。
それを体感するには「後輩」を指導した経験だけでは駄目で、あくまでも「部下」でなければならないと思う。

 

ラグビーでのラインアウトからのスローインや、スクラムやモールでの動きは、競技における集団戦の要素を最も強く感じさせるところであり、勝てるチームはそういった部分がやはり強いのだと思う。
ジワリジワリと押して行って、どんどん陣地を取っていく。
そういった部分を評して「地力がある」と言われるのだろうけど、これはビジネスにおいてもよく似ていることだと感じる。

 

個人の競技力は確かに大切で、チームの戦力とはおおよそメンバー各々の戦力の集合であることに疑いの余地はないのだが、しかしスキルの高い個人をただ寄せ集めただけでは、そのメンバーをもってして最大限に地力のあるチームとはならない。
ラグビーを観ていて、改めてそんなことを感じた。

 

ビジネスにおいて地力のあるチーム、すなわち勝てる会社というのは、戦略、人材配置の適材適所、上司も部下も同僚も含むチームメイト同士の信頼、裏方による支え、といった要素が綺麗に編み上げられた姿を持っている。

チームメンバー各々が持つ力を正の方向に掛け算するのが、地力を生み出すために必要なことであり、それはチームメンバーひとりひとりに課された試練でもあるけれど、その点で圧倒的に一番大きな責任と技量が問われるのはチームのキャプテンでありヘッドコーチである。

 

足が速いやつと、背が高いやつと、体重の重いやつを連れてきてチームを作っても、それだけで勝てるラグビーが出来るとは限らないだろう。


ビジネスにおいても、単にチームの誰かの頭が良いとか、話が上手いとか、仕事が速いとか、そういった個人プレイは確かに勝ちに近づく要素ではあるものの、それらの足し算だけでは決して地力には繋がらない。

 

とはいえ、個人プレイを否定するものでは無い。
戦いの局地戦の、最後の紙一重のところで伸るか反るかを分けるのは、往々にして個人プレイの技量の差だったりもする。ビジネスにおいても然り。

 

高い技量を持つ個人を、適材適所に配置しつつ、チーム内の信頼関係を構築する。
言葉にすれば歯が浮きそうな、この当たり前を、いかに当たり前に作り上げられるか。実はそれこそが、勝てるチームの王道なんだろうなと、ラグビーのワールドカップを見ながらふと、そんなことを考えた。

 

いつの日か、そう遠くない将来、そんなチームを作り上げたい。

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年齢と興味の移ろいに素直に従いながら生きる

子供の頃は将来、科学者になりたかった。
特に数学と物理学が得意で好きだった自分は、物理学者になりたかった。


数学は、ある程度は暗記の必要な学問であり、知ってるか知らないかだけの話であることが多いけれど、ぼくは暗記があまり関係のない変な種類の問題が好きだった。幾何学や代数の証明問題が得意で好きだった。

 

数学が好きだったので、中学時代には親に頼んで数学専門の塾に通っていた。学校とは違って、そこは先生もとても楽しかったし、そこには自分の居場所があった。

いつも授業の最後に「それではこのあたりで、今日の帰宅権!」と先生が一問を出題するのがお決まりだった。帰宅権というのは、その問題が解けたら帰宅できるというコンセプトの出題。

帰宅権はいつも変な問題で、決して教科書やら問題集の類を読んでもどこにも載っていないような先生のオリジナル問題。あるいは灘高校とか、そういった難関高校の入試問題だった。

問題が解けたら先生を呼ぶ。
「はい!ウエケン正解、イチヌケお疲れ!」と告げられ、考え込むクラスメイトを背に一番最初に部屋をあとにするのが、とても気持ち良かった。間違えていると「お手つきですね」と言われる。

ぼくは帰宅権が得意だった。帰宅権で最初に帰るのは、いつもだいたい3-4人ほどの決まった顔ぶれの誰かと決まっていた。
数学問題の解法はひとつでないことも多い。特に帰宅権はそういった問題が多かった。複数のアプローチが考え得るなか、もっともシンプルで美しい解き方をすることに美学を感じた。何よりそれが一番早いので、帰宅権を最初に奪取出来る。

 

当時、そこで帰宅権の一番乗りを争った同級生は、東大や京大の理系に進んだり医者になったりと風の便りを耳にすることがあるけれど、自分はとことん落ちこぼれて日本ではどこにも大学に行けず、結果的にはアメリカに留学した。
とにかく無意味に思える暗記勉強が自分には生理的に無理だった。時間の無駄にしか思えなかった。
もっとも、留学は小学生の頃からの夢だったというのもあったけれど。そこは本当に親に感謝している。

 

数学は楽しかったが、物理学の方に自分はより強い興味を抱いていた。 
数学はゲームあるいはパズルのようなものだが、物理学にはこの宇宙の真理に直接的に触れる感覚がある。

 

しかしアメリカに留学したら、なぜかいつからか建築に興味が湧いてきた。建築なんて、それまで全く気にしたことがなかったのに。そうやって自分は漂流するように建築を専攻するようになった。

Tadao Andoが自分のヒーローだった。それは今でも変わらない。日本で近代最高の建築家は間違いなく安藤忠雄だとぼくは思うし、世界的にも彼は近代最高の建築家のひとりだ。
空間の作り方、その巧さが群を抜いていると感じる。光と影がダイナミックに織りなす空間、足を踏み入れた人たちを瞑想に誘うかのような光と風と水の活かし方、その建築が置かれる場所の強みを最大限に汲み取る風景の切り取り方、そういったところは、安藤忠雄の真骨頂だ。

 

建築を勉強するなかで、モノのデザインに対する見方がどんどん変わっていくのが自分自身で感じられて、それがとても新鮮で楽しかった。

Apple製品がとても気になり始めたのもその頃だった。でもお金がなかったのと、当時ぼくはSONYのファンボーイだったので、iPodではなく頑なにWalkmanを愛用していた。日本人の少ないアメリカ中西部に生きる日本人としての誇りも、自分をSONYに傾倒させていたのだと思うけれど。

 

それと共に、かつて得意だった数学が全くダメになった。数字に弱くなったのをはっきりと実感した。かつてあったような、数字を見たらピンとくる方向感覚にも似た感覚は、もはや綺麗に消えてなくなった。すっかり数字の方向音痴と化してしまった。不思議な感覚だった。
たぶん、脳内で数学に楽しみを覚えていたところは、いつからか建築やらデザインやらに完全占拠されてしまったのかもしれない。

 

しかし、ぼくは建築を職業には選ばなかった。
大学の途中からビジネスに興味が移ってしまったからだ。今でも建築は好きだけど、趣味であって仕事ではない。
興味を持ったビジネスのなかでも、自分の興味の中心はマーケティングだった。
だけど今まで、けっきょくマーケティングらしい仕事はほとんどしたことはなく、なぜか今まで自分はキャリアの大半で営業職を務めている。

率直に言って、自分がなぜ営業職を務めているのか、本質的には未だに自分でも理解していない。
ただやってみたら、予想に反してそれなりに結果が出せたことが多かったので、もしかすると向いてるのかな?という、その程度でやり始めて続けて、そのまま今日に至る。もちろん自分なりの経験に基づく営業に関する理論はあるけれど、少なくとも20代の頃は、まさか将来自分が営業職に就いているとは想像すら出来なかった。

特に営業職が嫌なわけでもなく、それなりに楽しいので、今でもやっているのだろう。自負できる結果もいくつか残すことが出来たのは幸せだった。とは言え、もちろんまだ自分の職業人生は終わっていないから、いつの日かまたその実績を超える成果を出してやりたいとは思っている。

 

人間は誰しもやりたいことで生きていくわけではなく、それよりも「出来ること」で生きていく方が結果的には幸せになれる。好きなことで生きていこうとすると、逆に様々な不幸を呼び寄せる気がする。逆説的な真実だと思う。

 

年齢と共に興味は移ろい、年齢と共に自分の生き方は変化する。時と共に、自分の能力も変わっていく。
その変化に抗わず、むしろ素直に従いながら新鮮な移ろいを楽しんでいくことが、長く幸せに生きるコツなのかなと最近なんとなく感じる。

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