Signature Life

雑記帳

嬉しい涙の記憶

知人にふと「最近、嬉しくて泣いたことってどんなこと?」と訊かれた。

 

自分は嬉しくて泣いたことが、最近どころか生涯で一度でもあっただろうか?

それなりに喜怒哀楽ある人生を歩んできたつもりだけれど、ふと振り返れば、映画でなく現実世界で嬉し涙を流したことはないような気がしてきて、そのとき、そういえば一度だけあったことを思い出した。

 

前に付き合っていたガールフレンドが、プレゼントと共に手紙をくれた。そこには、ぼくへの日頃からの感謝の言葉が綴られていた。ガールフレンドから渡された封筒を開けて読んでみたら、目の前で泣いてしまったことがあった。それにはいろんな感情が入り混じっていたけれど、やっぱりとにかく嬉しかったなあ。

それも今となっては遠い日の記憶になってしまったけれど。

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憧れの熟練

最近、自分が50歳になったら、こんなオッサンになっていたいなあ、と思える人との出会いがあった。

まだぼくはその人のことをよく知っているわけではないが、ちょくちょく話をさせてもらうなかで、久しく感じたことのない感覚を覚えた。彼の圧倒的な経験値が生み出したであろう熟練と、またそれが支える余裕に感じる、純粋な憧れ。

 


その人と話をする度に、自分のなかにまだあったことさえ忘れかけていた成長意欲が刺激されるのも感じる。それは、軽く汗をかくほどの運動をした後に感じる爽快感にも似ている。

同時にしかし、自分の能力の至らなさと底の浅さに、情けなさと焦りの入り混じった劣等感を覚えるかのような、複雑な後味がある。

 


自分だってもう良い歳のおっさんなのに、20代や30代前半に戻ったような、とても不思議な若返りも感じる(笑)。

 


でも、自分はたしかに歳をとり、それを実感することのひとつは、悲しいかな認知能力の衰えである。

もともと大した頭ではないことはさておき、本当にここ数年で自分は頭が回らなくなってきた。

誰かと議論をすると、如実にそれを感じる。かつて口達者というか、議論は得意だったけれど、もう今は駄目だ。言葉が出てこないし、とにかく頭が回らない。一瞬だけ変に集中力が途切れて、相手の言ったことがその数秒は上の空になってしまうことも増えた。

ドッグファイトはもうできないね。アフターバーナーは失火するし、かつて何度でも周った9Gのターンは、今となっては6Gが精一杯でそれ以上に負荷を掛けると空中分解しそうになる。

 


それなのに、上に書いたオジサンは、そんな衰えなど全く感じさせず、いや、本人はそれを感じていたとしても、彼より10歳以上若いぼくが、彼の議論の構築の巧さと美しさに、感激を覚えて手も足も出ない。屁理屈で説き伏せられたのではなく、納得感で説得された感。

こういう人になっていたいなあと、漠然とながら思う。

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天才、小沢健二!

小沢健二の歌は、なぜか自分の腑に落ちる、不思議とするする心に入ってくる。

なんとなく脱力していて、過去を振り返ってはちょっと物悲しくもあり、それでもやっぱり前を向いていく。そんな感じです。それがいい。

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退屈な仕事

これはたぶん、人によって違うんだろうけど、自分の過去を振り返ると、仕事が上手くいっているときは、実はけっこうその仕事が退屈だったりした。

まあたぶん、これは自分が変人なんだろうと思う。

 

淡々とやっているんだけど、基本的にリラックスしていて要所に一瞬だけ頑張るので、なんか退屈なんです(笑)。要はサボっているに近いのかもしれないが、自分としては要所を締める意識だけはすごく持っていた。


でも仕事が楽しいときは、実はちょっと苦労していてあんまり上手くいってないことが多かった。おりゃ〜!と頑張ってるときはだいたい全部これ。

ちょっと苦労している、というのが肝で、仕事が苦痛なときはこれ極度に上手くいっていないときですね。


だから、自分として目指すべきは、仕事が退屈な状態に持ち込むことなのかもしれない。

なかなか、解ってもらいにくい感覚かもしれないけれども。

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人がクビになるとき(1) - what is your concern for joining us?

人がクビになるとき、理由は以下の4つのいずれかである。

1. コンプライアンス違反で一発退場
2. 上司に嫌われてクビ
3. 無能すぎてクビ
4. 有能なせいでクビ


これらに加えて、デスク閉鎖(部署撤退)というのをこのリストに載せることも出来るけれど、これは厳密にはlayoff といって、いわば不可抗力の解雇であり解雇理由が本人にあるわけではないため、ここにはあえて含めない。
外資2社に勤務して数年が経った頃のぼくは、既に上記リストの 1,2,3 は全て社内に見てきたつもりだった。ところが4を初めて見たときは衝撃的だった。そんなことがこの世にあって良いものなのかと。しかも、それでクビになったのが自分の上司だった。

 

2014年の夏にぼくはMelvin Lewと出会った。

Melvinはアメリカ系の金融サービス会社でアジア太平洋地域の営業チームのヘッドを務めていた優秀なセールズマンだった。営業担当で入社後6-7年に渡りトップセールズとしての成績を叩き出し、アジア太平洋を統括する地位に就いて4年目。


ぼくが彼に初めて出会ったのは、採用面接のテレビ会議。その会社の人事部に所属するリクルーターからお誘いを受けて面接に臨んだものの、正直なところ当時のぼくは転職に乗り気ではなかった。
Melvin とは三次面接で初めて話をした。それまで既に二回も面接を受けておきながら「乗り気ではない」というのも失礼な話だが「でも話を聞くだけなら無料だから」と足を運んだようなもの。


その会社は、東京丸の内にある超高層ビルの最上階をオフィスとしてワンフロア借り切っていた。

受付は少し暗めの暖色照明のもと、分厚い絨毯が敷かれており、高級感のあるソファーがポツンと置かれた空間。それまでにあまり見たことのない環境だった。正面の壁には会社のロゴと、金融商品取引業社の登録票が掲げられていた。それだけしかなく、シンプルな空間だった。

 

廊下を抜けて、床から天井まであるような背が高くて少し重い木のドアを開けつつ会議室に通されると、そこは明るかった。
壁の二面は床から天井までガラスで出来ており、丸の内の街並みが一望できる。そのほかの壁は明るい色の木で出来ており、暖色の照明が心地よい。
15脚ほどのオフィスチェアが、一枚の木の板でできた巨大なテーブルの周りに整然と並んでいる。巨大な額に収められた、読めない極太の毛筆による書体が正面の壁に掲げられていて、その隣の壁にはテレビがあった。そこにMelvinが映し出され、ぼくは彼と向かいあった。


「君が転職に踏み切れない理由を教えてくれ」

実際の顔の3倍ぐらいのサイズに映っているMelvinが、ぼくにそう訊いた。


当時のぼくは新卒で3年務めた日本企業から転職したのち、ヨーロッパの会社に勤務して2年が経過した頃だった。

転職に乗り気でない理由は、自分としては明確だった。

ヨーロッパ企業での職務内容はチャレンジングで日々の学びが多く、上司には恵まれ、それでいてちょうど自分のスタイルで仕事が回せるようになった時期だった。これがひとつ目の理由。

それに加えて2年で転職するのは、あまりにも早すぎるというのが二つ目の理由。  

この二つをぼくは Melvin に伝えた。


「教えてくれてありがとう。正直で真摯な理由だと思う。仮に君が40代だったなら、 ぼくは君に同意したかもしれない。君はまだ34歳(当時)。日々ビジネスを学んでいく時期にあって現職では2年を過ごした。私は2年というのは、次の舞台にチャレンジする時期として決して早すぎるとは思わない。確かに君の言う通り、まだ現職で学べることの全てを学んだとは言えないのかもしれない。だけど2年間を真剣に働いてきたのであれば、少なくとも日々の業務における中心的な知識とでも言うべき80%は、もう既に見てきたのではないかな?本当に現職から100%を学ぼうとするなら、少なくともこの先10年はかかるよ。学習カーブというのはそういうものだから。現職にあと10年留まって、ひたすら残りの20%を追求していくのか。それとも現職で学んだ80%を活かしつつ、新しい環境でまた速い成長を遂げるのか。10年経てば君も40代半ばになっている。その時に、どちらの自分が活躍しているのか、考えてくれれば結論は難しいことではない」

 

これが結果的に自分にとっての「口説き文句」となり、そこからさらに2ヶ月迷った挙句、ぼくはオファーレターにサインをした。


(続く)

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相場師仲間

この週末は充実した3日間だった。

四人の友人と、ひとりずつ一緒にご飯を食べながら語り合った。

そのうち三人は相場を張っている。株や為替の取引をしている。

ぼくも株をやっているけれど、彼らとはまず相場師同士だから友人になったのではなく、もともと親しい友人たちで、気がついたらなんと、実はみんな相場を張っていた、という偶然のような必然。

 

“A fisherman always sees another fisherman from afar.”

ぼくが好きな映画Wall Streetでの主人公Gordon Gekkoの台詞。

 

果たして30代で相場を張る人が日本の世の中にどの程度の割合で存在するのか不明ながら、おそらくそれほど多くはないだろう。

それも投資信託を買っているとか、特定の会社の株を長期投資しているというのではなく、日常的にそれなりの頻度でアクティブに売買しているという意味での相場師である。

 

世間で相場師と言えば、いかがわしいイメージを持たれることが多い。例えば競馬新聞を片手に、耳には鉛筆を挟んだオッサンたちと同列の、すなわちギャンブラーというイメージ。

相場を張っている人たちには、確かにそういう人種も居るのは間違いない。でも、ぼくの友人たちはみんな、むしろ現状と将来に危機感を抱いていて、それに対する打開策として相場を張っている。

 

現代の奴隷制たるサラリーマンからの脱却に、たぶん一番近いのが相場を張ることなのではないかと、ぼくは考えている。

少なくともサラリーマン生活の先に脱却はない。いくらアップグレードしたサラリーマンになろうとも、すなわち出世して高給取りになろうとも、累進課税制のもとではたかが知れているし、累進課税をものともしないほどの給与所得を得るには、努力と能力と運と、それらを数十年間に渡って保ち続けることが必要だ。これらの全てが揃わないと、奴隷制からの脱却は叶わない。

基本的に、時間の自由と場所の自由と人間関係の自由は、サラリーマンを続ける限り望めない。

しかし時間と場所と人間関係の自由こそ、幸せの根幹を成すものひとつ、ふたつ、みっつだと、ぼくは思う。だからぼくは相場に臨む。

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