Signature Life

雑記帳

達成感というよりは安堵感

数日前のエントリーに書いた内容の続きになるけれど、どうして自分は嬉し涙を流したことが記憶の限り人生で一度きりしかないのか、そのことに気づいて以来それが自分でも不思議だった。そして、それがなぜ、かつての恋人から心温まる手紙を貰って読んだ瞬間だったのか。

むしろ映画を観て涙を流すことがもっぱらだったりする(笑)。

 

その理由のひとつとしてもしかすると、というよりもたぶん、自分はけっこう醒めているから、というのがあるのかもしれない。

例えば昔から、ぼくは文化祭の類が好きになれず、あるいはもっとストレートに表現するなら、ああいったことが苦手で嫌いだった。

だから、何か共通の目標に向かってみんなで肩を組んで走るようなことが苦手だし、そういったことには自然と自分から関わり合いを持とうとはしない。

 

あるいは家族が大きな病気をして入院し、無事に手術が成功してくれた時でさえ、やはり深い嬉しさと感謝と同時に、今後の回復への不安感も同居する。あるいは不安感の方がまだ大きかったりする。

だからそういった状況においても、少なくともこれまでは感涙に繋がることはなかった。

 

もうひとつの理由として、ぼくの分析的な性格が強く関係しているように思う。

例えば何かを達成した時、例えそれが苦労の末に成し遂げたことであったにせよ、達成したその瞬間、自分には不思議と達成感があまりなかったりする。自分でも意外なほど達成感がなく、それよりは「よし、ようやくこれで次に進むことが出来る」といったような安堵感に近い感情を持つことが多い。

 

ちょっと表現が仕事っぽくなるけれど、ぼくはPDCAを回すのが好きで、それは仕事はもちろんプライベートでも、あるいは「生き方」といったレベルの大局においても、とにかく観察して、仮説を立てて、施行して、分析して、反省して、といったサイクルを回しながら動くことが根本的に好きなのだと思う。

だから上手くいけば「ほら、やっぱりね!」といった得意げな感情が自分自身に対して湧くし、予想外に苦労して時間をかけて達成した時でさえ最終的には自分の仮説が間違っていなかったことに対する安堵感が自分の中では支配的になる。

だから、そこには感涙がないというか、結果的にそういう思考回路には繋がらなかったのかもしれない。

 

でも、そんなぼくが常に途轍もなく苦労し続けてきたことのひとつが「恋愛」だった。

これはもう、少し恥ずかしい話なので、書くべきことか否か迷ったけれど、どうせこのブログを読んでくれるのはぼくの親しい人たちか、あるいは全く会ったことのない人たちのどちらかという両極端の顔ぶれになるはずなので、ここにはあえてこれを書こうと思う。

 

恋愛にはPDCAが回らない、と、少なくともぼくは、これまでそう感じてきた。それは今でも変わらない。

なぜ恋愛でPDCAが回せないのかと言えば理由はとても簡単で、失敗の理由が永遠に判らないことが多いからだ。少なくとも、残念ながらぼくの経験ではそうだった。そこが、世の中の他のおよそ殆どの事柄と異なっている、恋愛が難しいところである。

 

ぼくは、自分が根本的に不得意だと感じる事柄には基本的に寄り付かないようにして生きてきた。

根本的に不得意ということの定義は、もともとその分野において自分が大勢の人たちより圧倒的に劣っており、ちょっとやそっとの練習では改善しそうにないうえ、それに要する努力が並大抵ではない苦痛の繰り返しである、といった状況を指す。要は筋が悪いのである。素質がない。

ぼくにとっての恋愛とは、自分が根本的に不得意な事柄のひとつだった。とても残念なことだとは思えど、事実として今でもそれは変わらない。奥手だったからサンプル数も多くないうえ、たいていは突然に終局を迎える。そして、そこに思い当たるフシは無い・・・。

例えるなら、飛行機の航行中、操縦席の警告灯が突然、あっちもこっちも点灯して警報音が鳴り響き、いったい何が起こっているのか判らないまま失速に陥り、立て直そうとするも・・・墜落。

だけど、他のほとんどの事柄と違って、恋愛は避けて通ることが出来ない。

 

そんな自分でも、感謝の言葉を伝えてくれる人が居た。

そのとき、もう理由じゃなくて涙が流れた。

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